書店員の投票で選ばれる「本屋大賞」の2026年ノミネート作の中に、他の候補作とは明らかに毛色の違う一冊が並んでいる。野宮有氏のデビュー作『殺し屋の営業術』(講談社)だ。第71回江戸川乱歩賞を受賞した本作は、乱歩賞受賞作としては史上初めて本屋大賞にノミネートされるという快挙を成し遂げ、2026年の本屋大賞では堂々の第6位にランクインした。発売後の売れ行きも異例のペースで伸び続け、発売からわずか1か月足らずで4刷が決定するという勢いを見せ、その後も版を重ねて10万部を大きく超える部数を記録している。
物語の主人公は、契約成立のためなら手段を選ばない凄腕営業マン・鳥井。ある日、アポイントを取っていた訪問先で刺殺体を発見し、自らも何者かに背後から襲われて意識を失う。目を覚ました鳥井を襲ったのは、家主の殺害を「ビジネス」として請け負っていた殺し屋だった。事件の目撃者となってしまった鳥井は口封じのために消されかけるが、絶体絶命の状況で殺し屋に向かってこう切り出す。「ここで私を殺したら、あなたは必ず後悔します」。
ここから物語は、営業マンとしてのキャリアで培ったトーク術・契約スキル・PDCAサイクルを武器に、鳥井が殺し屋業界という裏社会の論理と渡り合っていく異色の攻防戦へと突入する。殺人請負会社「極東コンサルティング」には「2週間で2億円」という営業ノルマが課されており、達成できなければ社員全員が消されるという殺伐とした設定が、ビジネス小説とクライムサスペンスという本来交わらないはずの2つのジャンルを強引に接続する原動力になっている。
著者の野宮有氏は1993年福岡県生まれ、長崎大学経済学部の出身だ。2018年に電撃小説大賞で選考委員奨励賞を受賞してデビューし、『愛に殺された僕たちは』『ミステリ作家 拝島礼一に捧げる模倣殺人』といった作品を発表してきた。2025年に初めて手がけた文芸作品が本作であり、乱歩賞受賞に加えて「王様のブランチBOOK大賞2025」も受賞するという、デビュー以来のキャリアの中でも際立った評価を得る一作となった。「少年ジャンプ+」で漫画原作者としても活動しており、営業経験を生かしたビジネス的な視点と、エンターテインメント作品を手がけてきた経験の両方が、本作の独特な世界観を支えている。
本作を語るうえで欠かせないのが、主人公・鳥井のキャラクター造形だ。契約のためなら手段を選ばないという設定は、一歩間違えれば読者の反感を買いかねないが、極限状況下でも冷静に相手の心理を読み、言葉を武器に窮地を切り抜けていく姿は、むしろ痛快なヒーロー像として描かれている。殺し屋という圧倒的に不利な立場の相手と対峙しながらも、これまで培ってきた営業スキルへの自負を失わない鳥井の姿勢が、読者の共感と応援したくなる気持ちを同時に引き出している。物語が進むにつれて、鳥井自身も殺し屋業界の論理に少しずつ染まっていく様子が描かれており、単純な「善対悪」の構図では割り切れない、人間ドラマとしての深みも本作の大きな魅力の一つになっている。
本作が異例の支持を集めている理由の一つは、「営業」という誰にとっても身近な行為が、生死を分ける極限の交渉術として描かれている点にある。普段は会議室で交わされるはずの提案トークや値引き交渉、クロージングのテクニックが、ナイフを突きつけられた状況でそのまま応用される展開は、営業職の経験がある読者ほど強く引き込まれると評判だ。SNS上の感想投稿でも、営業経験者ほど作中のトークの「あるある感」に強く共感し、緊迫した命のやり取りの中に思わず笑ってしまう滑稽さを見出しているという声が目立つ。
もう一つの理由は、殺し屋業界という裏社会にも「ノルマ」「PDCA」「評価制度」といった、現代のサラリーマンにとって耳の痛い仕組みが徹底して当てはめられている点だ。命を奪う仕事にまで数値目標と査定がついて回るという皮肉な設定は、単なるエンタメを超えて、現代の労働環境そのものへの風刺として読み解くこともできる。ミステリー小説としての謎解きの面白さと、ビジネスパーソンなら誰もが共感できる「ノルマに追われる苦しさ」が同時に楽しめる構成が、幅広い層からの支持につながっているようだ。
続編となる『殺し屋の出世術』は、発売前の予約段階からすでに重版が決定するという異例の滑り出しとなり、今夏の新刊の中でも突出した勢いを見せている一冊として注目されている。乱歩賞受賞から本屋大賞ノミネート、そして続編の重版決定という一連の流れは、新人作家のデビュー作としては近年でも際立った成功例と言えるだろう。
作者は自身のインタビューで、テンポよく展開する海外の映像エンターテインメント作品を参考にしたと語っている。1話ごとに緊張と緩和のリズムを作り、読者を飽きさせずに一気読みさせる構成の巧みさは、小説でありながら映像作品を見ているような没入感を生み出していると評されており、この構成力の高さそのものも、新人作家としては異例と受け止められている。章の切り替わりごとに次が気になる展開が用意されており、いわゆる「一気読み系ミステリー」としての完成度の高さも、支持を集める要因の一つだ。
ミステリー小説の賞であるはずの江戸川乱歩賞の受賞作が、書店員の投票で決まる本屋大賞にノミネートされること自体、これまでほとんど例がなかった。ジャンル小説としての完成度だけでなく、書店の現場で幅広い読者に薦めたくなる普遍的な面白さを兼ね備えていると、多くの書店員が判断した結果だと言える。この異例のダブル受賞・ノミネートという実績が、本作の話題性をさらに押し上げる結果につながっている。
出版業界では、いわゆる「ジャンル小説」と「一般文芸」の間に見えない壁があるとされてきた。本格ミステリーとして緻密に組み立てられたトリックや伏線を評価する乱歩賞と、幅広い読者にとっての面白さや読みやすさを重視する本屋大賞は、選考の基準そのものが異なる賞として知られている。その両方から高く評価される作品が生まれたことは、エンターテインメント小説の新しい可能性を示す出来事として、出版関係者の間でも注目を集めているという。トリックの精巧さで選ばれる賞と、読者に薦めたくなる面白さで選ばれる賞の両方を満たす作品は、そう頻繁に生まれるものではない。だからこそ、今回のダブル快挙は出版業界の内外を問わず、特別な出来事として受け止められている。
ミステリーとしての完成度も高く評価されている点も見逃せない。殺し屋業界という特殊な世界観を舞台にしながら、事件の真相をめぐる伏線の張り方や、鳥井が窮地を切り抜けていく過程のロジックは、本格ミステリーとしての緊張感をしっかりと保っている。営業テクニックを扱った実用書的な面白さと、先の読めない展開で引っ張るエンターテインメント性が両立している点が、単なる話題性だけでは終わらない評価の高さにつながっている。
普段ビジネス書ばかり読んでいる人にとっても、小説という形式で「交渉の本質」を追体験できる点は新鮮な読書体験になるはずだ。逆に普段は小説しか読まない人にとっても、営業という仕事のリアルな駆け引きに触れられる作品として楽しめる。ジャンルの垣根を越えて幅広い読者に刺さっているのが、この作品最大の強みと言えるだろう。
人気の高まりを受けて、2026年6月からは漫画配信サービス「マガポケ」でのコミカライズ連載もスタートした。活字が苦手な人や、通勤・通学の隙間時間で気軽に楽しみたい人にとっては、まず漫画版から入ってみるのも一つの選択肢だ。小説版とあわせて読むことで、鳥井の心理描写や殺し屋業界の緊張感をより多角的に味わうことができる。
コミカライズによって、これまで小説をあまり読まなかった層にも作品の認知が広がっている点も見逃せない。漫画版をきっかけに原作小説に手を伸ばす読者が増えれば、シリーズ全体の勢いはさらに加速していくだろう。メディアミックスによってジャンルの垣根を越えたファン層が形成されていく過程そのものも、出版・エンタメ業界のヒット作の作られ方として興味深い事例になっている。Amazonで『殺し屋の営業術』の詳細を見る
続編『殺し屋の出世術』では、主人公・鳥井と殺人請負会社「極東コンサルティング」のメンバーが、新たなノルマに直面する展開が描かれるという。前作のラストから続くキャラクターたちのその後が気になっていた読者にとって、待望の一冊になりそうだ。Amazonで『殺し屋の出世術』の詳細を見る
似たジャンルの作品として、企業社会の裏側を舞台にしたクライムサスペンスや、営業職の泥臭さをリアルに描いた小説は過去にも数多く存在してきた。しかし、殺し屋という非日常の存在に対して、日常の営業スキルをそのままぶつけるという発想の作品は珍しく、この一点だけでも本作が読者に新鮮な驚きを与えている理由がうかがえる。ミステリーファンにも、ビジネス書ファンにも、それぞれ違った角度から刺さる稀有な一冊だと言えるだろう。
実際に営業職として働いた経験がある読者であれば、鳥井が繰り出す交渉術の一つひとつに、自分自身の仕事を重ね合わせながら読み進めることになるはずだ。逆に営業とは無縁の仕事をしている読者にとっても、普段見えていなかった営業という職種の奥深さを知るきっかけになる。職業小説としての側面と、エンタメ小説としての側面が高い次元で両立している点こそが、本作が幅広い層から支持を集めている最大の理由だと言えるだろう。
前作をまだ読んでいない人は、続編の発売前にぜひ手に取ってみてほしい。営業という日常的な行為が持つ、交渉・説得・信頼構築といった要素の奥深さを、これほどスリリングな形で味わえる作品はそう多くない。通勤電車の中で読み始めたら、次の駅を乗り過ごしてしまうかもしれない一冊だ。この夏の読書として、あるいは通勤・通学のお供として、ぜひ一度手に取ってみてほしい。読み終える頃には、次に自分が誰かと交渉する場面で、鳥井の言葉遣いや間の取り方を、きっとふと思い出すことになるかもしれない。
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